2階の展示 -海苔づくりの1年と道具-

海苔を育てるヒビ

海苔を育てるために海中に()てた木や竹をヒビ(篊)と呼びました。ヒビとは元来、木や竹を(さく)のように建てた囲いの中へ魚を誘い込んで()仕掛(しか)けを指すものでした。木や竹を建てて海苔を育てる発想も、そうした漁獲(ぎょかく)施設(しせつ)の木竹に海苔が育つ状況から来たものと考えられます。海苔ヒビは江戸時代から大正時代までは木のヒビが、第二次大戦までは竹のヒビが主流で、戦後は海苔(あみ)(網ヒビ)となりました。

 

ヒビごさえ(ヒビ作り)

夏は()()けの葦簀(よしず)の下で、ヒビごさえに汗を流しました。竹ヒビが使われていた第二次大戦以前は、“せっころ落とし”がひと仕事。竹は2~3年再利用するので、“せっころ”と呼んだフジツボを鉄ヘラでガリガリ落として仕立て直します。新しい竹はしばらく川に()け、油気(あぶらけ)を抜いて海苔を付けやすくしてヒビに仕立てました。戦後、海苔(あみ)(網ヒビ)が普及(ふきゅう)すると、どの家も椰子(やし)棕櫚(しゅろ)の縄を買って()みました

 

ヒビ建て

  木ヒビや竹ヒビの時代、海へ建てる作業は9月中旬から始まりました。()(ぼう)を突き立てて海底に穴をあけ、そこにヒビの根元を差し込みます。作業場所の水深によっては高さ1~5尺 (30150)の下駄を()き分け、それに対応する長さの振り棒を組み合わせて使いました。海苔網になると、網を張る支柱を建てますが、海底の(かた)い漁場では圧力ポンプの水圧(すいあつ)で穴をあけて建てました。

海苔(あみ)(網ヒビ)

木ヒビや竹ヒビは、満潮時(まんちょうじ)には海面(かいめん)()(もぐ)るので、海苔採りは毎日変わる干潮(かんちょう)時間に(しば)られました。また、資材の運搬やヒビごさえ、建て込みなども膨大(ぼうだい)な労力が必要でした。そうした負担を軽減(けいげん)したのが海苔網で、干潮時でなくても海面下の網を引き上げることができます。開発は大正9年に水産(すいさん)講習所(こうしゅうじょ)の試験場(千葉県五井)で始まり、千葉県沿岸では第二次大戦前に広まりましたが、大森で普及したのは大戦後でした。

  

海苔()

  ヒビに育った海苔の()()りを“手入(てい)れ”と呼びました。木や竹ヒビの頃は12月上旬、海苔網になると11月の内に始まり、翌年3月までの間、旧暦(きゅうれき)(しお)干満(かんまん)を見て手入れに出ました。一人乗りのベカブネ(ノリトリテンマ)に(ざる)を積んで出かけます。海苔は柔らかくて滑りやすいので、凍える寒さでも素手で採りました。摘み採った網の海苔は、(ひと)(しお)(半月)ほど育ててから再び採りました。

海苔()

乾し海苔作りの最初の作業は海苔切りです。乾し海苔を(うす)く平らに仕上げるため、生海苔を細かく(きざ)みます。作業は海苔採りの翌日早朝でした。深夜2時ごろに起き、“つけ場”と呼ぶ作業部屋で始め、朝までに 海苔つけを終えました。早朝の作業だったのは、天日(てんぴ)乾燥が主流だったからです。冬の()()しで()すには、朝日が出る前に海苔乾しの準備を終えることが必要でした。

 

海苔きりの道具

  江戸時代から使われてきた海苔(きざ)みの道具は、幅の広い海苔切り包丁(ぼうちょう)です。(けやき)(まないた)の上で、両手に包丁を(にぎ)り、交互に(たた)くように刻みます。昭和になると複数の刃を平行に並べて効率をあげるよう工夫をした飛行機(ひこうき)包丁(ぼうちょう)()き包丁や、動力(どうりょく)で複数の刃が上下する海苔裁断機(さいだんき)が現れました。そして、第二次大戦後は挽肉製(ひきにくせい)造機(ぞうき)と同じ仕組みのチョッパーが普及しました。

海苔()

乾し海苔を作る作業を“海苔つけ”と呼びます。“海苔()き”と呼ぶ産地も多いのですが、大田区は製造法の特色を示して“海苔を付ける”と表現してきました。型枠(かたわく)をのせた海苔()を流し台の上に置き、その枠の中へ水と混ぜた海苔を流し込みます。この時、投げ付けるように勢いよく流し込むのがコツなので、“海苔付け”と呼んできました。なお、人にもよりますが1時間に250300枚ほどの速さで付けたそうです。

 

海苔()

  海苔は天日(てんぴ)で乾しました。最初は“裏乾(うらぼ)し”をします。急に(かわ)かすと海苔が(ちぢ)むので、海苔の付いている()の表ではなく、簀の裏側から()に当てて乾かしました。そして、乾いてくると表へ返す“()(かえ)し”をしました。古くは畑などに作った(わら)(どこ)の“台乾(だいぼ)し”に海苔簀を1枚ずつ止めて乾しましたが、第二次大戦後は移動できる“枠乾(わくぼ)し”が普及し、天候の悪い日はストーブを据えた“乾燥場(かんそうば)”で乾し上げました。

海苔問屋の仕入れ

海苔の季節になると、乾し海苔を買い集めるのが大森の仲買(なかがい)問屋(どんや)でした。その仕入れ方法は、“庭先(にわさき)()い(庭先入札(にゅうさつ))”と呼ばれ、数軒の問屋がグループで生産者を回り、その日に乾し上がった海苔を値踏(ねぶ)みして紙片に書いて入札しました。

なお、漁業協同組合に集めて一律に入札する“共販制(きょうはんせい)(共同入札)”は、昭和28年から導入され、当時は“お椀子(わんこ)”と呼ぶ黒塗(くろぬ)りの円板に入札値(にゅうさつね)をチョークで書いて投票しました。

 

乾し海苔の保存(昔の方法)

  乾し海苔にとって湿気(しっけ)大敵(たいてき)です。天日で乾した海苔をそのまま保存すると、半月ほどで変質し始めます。冬に生産される海苔を、問屋は大量に保管して梅雨(つゆ)を越さなくてはなりません。そのため、海苔の湿気を除く“火入(ひい)れ”をして、再び湿気ないように密閉(みっぺい)保存(ほぞん)する“(かこ)い”をします。“火入れ”はタドンや木炭を熱源とした“ホイロ”と呼ばれる設備を使い、“囲い”は内側にブリキを張った海苔箱に入れて、和紙で()()りしました。

海苔(のり)下駄(げた)の体験

  木や竹のヒビを建てた時代(江戸時代から昭和20年代前半)に使われた“海苔下駄”と“()(ぼう)”を体験しましょう。“海苔下駄”は高さが30cmから170cmほどまでの各種があり、海面が(こし)から(むね)あたりになる高さの下駄をはいて作業します。“振り棒”は海底にヒビを建てる穴をあける棒です。海底に突きたてて()をゆすり、振り棒の(また)()み込みます。

御湯花(おゆはな)(こう)太々(だいだい)御神楽(おかぐら) 奉献(ほうけん)がく)

  毎年冬になると、大森・品川の海苔仲買商のもとへ信州(しんしゅう)諏訪(すわ)地方(ちほう)から出稼(でかせ)ぎ人が来ていました。その諏訪の出稼ぎ人らが(ぶん)(きゅう)元年(がんねん)(1861)に、同業者仲間の「御湯(おゆ)花講(はなこう)」とよぶ組織を結成しました。この額は、「御湯花講」が明治167月に諏訪(すわ)上社(かみしゃ)太々(だいだい)神楽(かぐら)奉納(ほうのう)した折に献納(けんのう)した絵額です。この事業を行なうにあたって、講員の資金不足を補うために大森・品川・日本橋の海苔仲買商から寄付を集めました。そして、(うるし)()画師(えし)柴田(しばた)()(しん)に依頼して東京湾の海苔作りの風景を描かせ、あわせて神楽奉納の賛同者名を書き込んでいます。そこには、東京83名、駿(すん)(しゅう)三保(みほ)1名、信州地元講員67名、地元世話人19名の名が記されています。

大森 海苔のふるさと館   〒143-0005 東京都大田区平和の森公園2-2   

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